明智光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名であり、織田信長に反旗を翻して本能寺の変を引き起こしたことで知られています。
光秀の生い立ちはあまり詳しくは分かっていませんが、近江国(現在の滋賀県)出身とされています。父の明智秀満は、近江国の豪族であったとされ、光秀も父の家臣として従っていました。光秀は、若くして戦功をあげ、信長の家臣として仕えました。
しかし、1582年、本能寺の変が起こります。光秀は、信長に対して反旗を翻し、信長を自害に追い込みました。光秀はその後、京都を占拠して天皇や公卿らを保護し、天下人を目指して奮闘しました。しかし、その野心は果たされず、翌年には本能寺の変の報復を受けて戦死しました。
光秀が反乱を起こした背景には、信長の信仰心の欠如や、豊臣秀吉の台頭による情勢の変化などがあったとされています。また、光秀は自身の立身出世の機会を求めていたという説もあります。
光秀の死後、その功績は否定され、歴史においては、信長に反逆した武将として扱われることが多かったです。しかし、近年では、その行動の背景や時代背景を踏まえて、光秀の評価が見直されるようになってきています。
明智光秀の名言・格言
「独り身の身、なんの不自由もござらぬ身でござりまする。」
自分の身の丈に合った生き方をしているという意味で、負け惜しみを言わない姿勢が伺えます。
「危うきに近寄らず、近寄れば必ず危うし。」
危険なものに近づかないことが大事であり、近づいてしまった場合は必ず危険が伴うということを示しています。
「義士は国を思い、奸臣は家を思う。」
自分勝手な利益を追求する者は奸臣であり、国や他人のために尽くす者が義士であるという、忠誠心と正義感に基づく言葉です。
「一億一心」(いちおくいっしん)
一人ひとりが心を合わせて団結することで、大きな力を生み出せるという意味が込められています。
「兵は神速、戦は兵力のみにあらず。」
戦争においては、速さと正確性が勝利の鍵であると同時に、兵力だけではなく、戦略や知略も重要であるということを示しています。